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八城幾子考察〜ヤス=幾子関する議論について〜

 EP6から登場した八城十八。EP8のエントリでも彼女については考察して来ましたが、このエントリでは彼女はヤスなのではないか?という部分を論点に再考察して行きたいと思います。
 
ヤス=幾子説

 私がこのブログを通して論じてきた解釈とは違う内容になりますが、10月6日に起こったことはEP8の考察に書かれた通り。その後の流れもEP8のエントリの通りになります。死ぬつもりだったヤスですが、結果的に死ぬことが出来ず生き残ってしまう可能性はあります。
 そしてヤスはここで名前を捨て、八城幾子を名乗ります。しかし、色々な問題があります。
 ・ヤスがベアトリーチェに移した恋の芽は何処にあるのか?(入水シーンの解釈)
 ・縁寿に対して連絡を取らない理由はなんなのか?
 ・そもそも小説を書いたりしないで全てを世間に公表すべきではないか?
 
 これも回答出来ます。

 ・ヤスがベアトリーチェに移した恋の芽に関して
 そのままベアトリーチェが持っています。EP8の????ではベアトリーチェと戦人の再会によって黄金郷の扉が開く様子が描かれます。また、幾子と十八は結婚していないとも示されており、十八または戦人がこの場合においても、幾子をヤスと認識しているかも曖昧なままです。
 ゆえに、ヤス=幾子が成立した場合でも、ベアトリーチェと戦人の恋愛も成立する可能性を残したままと言えます。

 ・縁寿への連絡に対して
 これもEP8の????の情報をそのまま採用することで説明出来ます。当ブログの場合、縁寿は死亡したという公式発表があったということなのでそもそも連絡をすることが出来ないのですが、もし、EP8のような状況が成立した場合でも、「十八は戦人と自身の記憶の不一致な状況に苦しんでおり、自殺未遂をするに至るほどだった。そのため、戦人の肉親である縁寿に会ったら、取り返しの付かないことになってしまうと思った。だから、再会を慎重に手配した」これですべて説明はつきます。

 ・世間に対して関係者だと示し、知りうることを伝えないことに対して
 これも縁寿に連絡を取らないのと同様の理由です。十八と戦人のことを考えての結果と言えます。そして、魔女フェザリーヌと幾子の外見は同一ですが、幾子が伊藤幾九郎◯七五六として偽書を発表していたということは言い切れません。あくまで、話のプロットを考えて書いているのは十八であり、幾子は表現のサポートにとどまっていると可能性もあります。この場合、十八が気持ちとエピソード記憶を整理しながら少しずつ執筆をしていくことは、記憶障害の治療にも役に立ったのかもしれません。

 ゆえに、ヤス=幾子も成立はする、しかし、今まで全ての考察の結果からヤスはあの場で死んだと考えるのが妥当である、と結論したのがこれまでの当ブログで考察してきた内容でした。


現実世界でも繰り返されるベアトリーチェの魔法体系

 今回、この記事をエントリーするきっかけになったのは、同じ考察仲間であることんさんのブログに感銘を受けたからです。
 以下に記事とリンクを張ります。

 幻想水面歌「ヤス生存及び幾子である可能性と意味」


 このブログで一番に皆さんに読んで欲しい部分は魔法エンド????のラストの語り手が幾子であるということからの一連の記述です。
 補足しますと、寿ゆかりに招待された幾子と十八は、導かれるままに扉を開け、そこではまるであの日の六軒島のような光景が広がります。記事にも描かれていますが、福音の家についたシーンでは三人称視点で描かれますが、この扉をあけてからは一人称視点に変わります。語り部を担当するのは、十八の車椅子を押す“私”という人物です。「十八の車椅子を押しながら、私たちは廊下を進み」という記述から、幾子であるとするのが自然です。他には十八、寿ゆかりが考えられますが、十八自身がそういうのは不自然ですし、ここを戦人と捉えても今までの記述と口調などの表記が一致しないため不自然です。寿ゆかりに関しても、その後の「縁寿が」という記述と他人行儀に語っている(そもそも、ゆかりならばここも私、もしくは寿ゆかりになるはず)という事からも、幾子だとするのが自然です。
 そして、“私”こと幾子は、この場所を六軒島の屋敷のホールだと断言します。このブログの一連の記事は、ヤス=幾子で描かれますが、ヤス≠幾子とした場合、このシーンの解釈は以下のようになります。
 これは寿ゆかりこと縁寿が、「六軒島の事件の発端であるヤスのことを許した」ヤス≠幾子なのですから、当然、そのようになります。魔女と兄ことベアトリーチェと戦人の仲を認め、完全にあの事件とも兄とも決別した。これを主に戦人との記憶の葛藤に苦しんでいた十八の心の重荷を開放する意味合いで行ったということになります。幾子は反魂の魔女、エンジェ・ベアトリーチェがヤスの魂を現世に蘇らせるために使った依代となります。兄に連れ添う親しい女性ならば、その役目に相応しく、作家であり、数々の物語を心から愛し、八城十八が書いた六軒島の物語にも造形の深い彼女は、そういった能力的観点から見てもこの役目に適任です。この一連のシーンが終わったあとに、幾子なら「私を依り代に、ベアトリーチェの魂が蘇り、この場の光景を見届けました」くらいの気の利いたことは何の打ち合わせもなくても、ゆかりの思いを察知して言ってくれると思います。縁寿の反魂の魔法を持ってして物語が終局する様子は、EP4のさくたろう復活とも響き合い、「うみねこのなく頃に」のラストシーンとしてふさわしいのではないかと思います。

 このシーンを検証していて、ヤス=幾子に関連する議論は、EP1の????でベルンカステルが言った「ベアトリーチェはサイコロのどんな目がでても満足する」という記述と響き合っていると思いました。

・ヤス=幾子であると「うみねこのなく頃に」のプレイヤーが結論した場合
 物語の中でヤスは生きていることになります。しかし、ただ、この結論に至った場合、愛の為に縁寿を始め、自分たちが良ければそれでいいという考えを持たれる可能性もあります。それでも生きていることは素晴らしく、“作者”は満足します。

・ヤス≠幾子であると「うみねこのなく頃に」のプレイヤーが結論した場合
 ヤスがあの日の六軒島で死ぬに至った経緯を読者に理解してもらえることになります。同時に、“作者”がどんな気持ちで六軒島の物語を紡いできたかも理解することが出来ます。それはそれで、満足します。しかし、では、“作者”はなぜ幾子をヤスの年齢である19歳と関連付けた名前にしたのか、名前だけに留まらず、様々な特徴からヤスを連想させる特徴を幾子というキャラクターに持たせたのかということに関して、これだけでは明確な意図は理解出来ません。

・ヤス=幾子とヤス≠幾子を議論した結果、それでも物語の中でヤス=幾子であるとプレイヤーが結論した場合
 ことんさんのブログのようになります。以下、引用します。(許可はとってあります)

未来に「縁寿は兄と再会することができ、黄金郷で全ての恋人たちが幸せになり、現世を生きる自分たちも幸せになれる可能性があったんだよ」と、「だから生きていて良かったんだよ」と、戦人は“彼女”に言いたかった。だから物語を書いて、ベアトリーチェに捧ぐと結んだのでしょう。

この戦人の世界に、ヤスはきっともうどこにもいません。
「なぜ“彼女”が死ななくてはならなかったのか」とずっと考え、「“彼女”が死ぬ必要などなかった」というひとつの答えが出た。

ただ、紡がれた世界の住人からしてみればヤスは生きているのです。
ヤス=幾子もヤス≠幾子もどちらもそれぞれの世界では、その中に限りそれが真実なのである。
それが『うみねこのなく頃に』の世界観なのだと私は解釈しました。

幻想水面歌「ヤス生存及び幾子である可能性と意味」より


 
 ヤス=幾子とヤス≠幾子が議論されている間、ヤスが生きている確率とヤスが死んでいる確率は1:1で重なり合っていました。そして、幻想が打ち砕かれ、すべての真実が明らかになったあとも、その議論の最中の間だけでも幸せに生きていた現世の恋人たち、そして、その“作者”の思いを知って、これが幾子をああいったキャラクターに設定した意図なのだと当ブログは結論します。

 なお、文中の“作者”に関しては、ことんさんと同じく、十八こと戦人を想定しています。
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